心残りな話
コロナ禍以降、インバウンドでどこの観光地も裕福そうな外国人で溢れています。
しかし私がまだ20歳になったばかりの頃は、まだそんなに外国人を見ることは少なく、特に白人系の人を見る機会は、ほとんどなかったと思います。
当時私は大阪の郊外のとある街で、1人暮らしをしていました。
お金もなく、友達とは疎遠となり、私はいつも休日をもてあましていました。偶然その日も近くの商店街をあてもなくぶらぶら歩いていたのです。
そこに私に笑顔で近づいてくる外国人の2人組がいました。どちらも白人系で歳は若く、身長は2m近い大男でした。
「ちょっとお話イイデスカ?」
2人はたどたどしくもしっかりした敬語の日本語で私に話しかけてきました。
私は外国人と話すなんてなかなかないことですし、暇だったこともあり、少しだけ話を聞くことにしました。
後で知ったのは、その外国人たちはN君とW君といって、アメリカから来た、とある宗教の勧誘の人でした。
2人は私の住んでいた狭いアパートまで付いてきました。
私はアメリカ人だからと思いコーラーを出すと
「ボクタチ 水シカノメナイ・・」
規律の厳しい宗教だったようです。
それから彼らと不思議な交流が始まりました。宗教の勧誘は適当にはぐらかしていましたが、彼らはわりと頻繁に私の部屋を訪ねてきたのです。
ある日、私に一番親切だったN君が
「今度ボクタチノアパートオイデヨ!夕食ゴチソウスルヨ」
そういわれて、興味本位でのこのこ行った日のことは、いまでも鮮明に覚えています。
彼らはそこで共同生活をしていました。
そこには私に声をかけたN君とW君のほかに、初めて逢う知らない2人がいたのです。彼らも同じアメリカの白人でした。
夕食はスパゲッティのミートソースでした。ソースに至るまですべて彼らの手作りでした。
テーブルの上に5つのお皿が並べられました。
スプーンとフォークも並べられました。しかし、私の席のスパゲッティにはスプーンもフォークもなく、「箸」が置かれました。
私が日本人だからと思って、わざわざ「箸」を用意してくれたのでしょう。もちろん私に異論はありませんでした。
そして食事が始まりました。私は「箸」でスパゲッティをつかもうとしますが、ミートソースのせいでツルツル滑ってうまく口に運べません。
私は「まあいいや、ここは日本風にいこう」
そう思って、スパゲッティを勢いよくすすり出したのです。
「ズズズーズルズル ズズズー 」
私のすすりこむ音が部屋中に響きました。
すると、私が今日初対面だったうちのひとりが、私に親切だったN君に何やら英語で笑いながら話しかけています。
それは英語ではありましたが、良い言葉を言ってないことは彼の表情で察しが付きました。
するとN君の顔色が変わり、小さく野太い声で、何やら言い返しています。
英語の内容はわからないけど、彼らの表情と声色で、どんな会話が交わされたか、なんとなくわかりました。
「こいつ下品な食い方するなぁ」
「やめろ!文化の違いなんだ」
「こっちまで、気分がわるくなる」
「それ以上彼を侮辱するな」
おそらくこんな内容だったのでしょう。わたしはいたたまれなくなりました。
すると次の瞬間、N君は私の食べ方を指摘した人に、突然凄い勢いでつかみかかったのです。
椅子が倒れ、ものすごい音がしました。
アメフト経験者で大きな体のN君に対し、相手も負けてはいません。
外国人の喧嘩はとても激しく、一瞬でその場は修羅場となりました。わけのわからない英語の怒号が響きます。
あとの2人が必死で止めに入り、ようやく2人は落ち着きました。
そしてふたたび席にもどり、みんなが私に謝ってくれ、椅子をもどし、なんとか食事の続きを始めたのでした。
すると今度は、外国人の彼らが、スプーンとフォークを持っている彼らが、そろってスパゲッティを
「ズズズーズルズル ズズズー 」
音を立てて食べ始めたのです。
私はそのときどういうわけか泣けて泣けて仕方ありませんでした。
N君が私をかばう気持ちが伝わったのと、他のみんなが私に気を使って音を立てて食べ始めたからです。
他人からここまで気を使われたことも、N君のように体を張ってまで、私をかばってくれるような人も、当時の私には無かったのです。
最後は私を侮辱した彼も謝ってくれて、初めての夕食会は終わったのでした。
それからひと月もしないうちに、N君が本国に帰ることになりました。
「ゼッタイアソビニキテヨネ」
彼はアメリカの住所を渡してくれました。
しかし、私は何十年経っても、いまだに彼を訪ねて行けていません。
しっかりあのときのお礼が言いたくても、言えていないのです。

コメント
日本人なら「箸」と信じ込んでおられたのですね。
Nさんには遅くなってもいいから、ぜひ会いに行ってください。