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からあげ弁当に沼った話

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 持ち帰り専門の からあげ屋 さんがあります。 私はこの店の からあげ が好きで、仕事帰りに立ち寄って からあげ 弁当をひとつ購入します。 ちなみに私には同居する家族はいません。だから晩ごはんはいつもひとりです。 この からあげ 弁当は、大きな鶏の からあげ が4個と、少量のきんぴらごぼうと桜漬けが入っています。 からあげ には 「塩味」「醤油味」 のほかに、 「カレー味」 もあり、ほかにも 「四川風」 とかいろんなメニューがあります。 わたしはいつも 「塩味」 一択です。 そして特筆すべきは、ごはん大盛が無料なのです。 「ごはん大盛無料ですが、どうしますか?」 私が からあげ 弁当を注文するとき、決まってこのように尋ねられます。 「あっそう…じゃあ大盛で」 私は平静を装いながら答えますが、実は内心ウキウキしているのです。 家に着いてすぐ、まだ十分温かいからあげ弁当を食べるんですが、そこで大盛にしてもらったごはんを半分取り分けてお茶碗に入れます。 そしてこれは明日の朝食にするのです。 なんと慎ましい、なんと切ない食事風景でしょう。 まだ温かい からあげ は、外側はカリッとしていて、中はジューシーで、本当においしかったのです。  私は決して大げさでなく、この からあげ 弁当を20日間毎晩食べ続けました。 夜、私が店に行くと、店員さんが 「また来た」 みたいな顔をするようになりました。 そしてある日、いつものように 「塩味」 でごはん大盛の からあげ 弁当を注文して、出来上がるまでの10分間を、車の中で待っていました。 頃合いを見て、引換券を持って窓口に行くと、ちょうど私のからあげ弁当が出来たところでした。 若い女性店員さんが、窓をガラッと開けて 「20番の方~」 と呼びます。20番は私の番号です。 引換券を渡して、いつものようにからあげ弁当を受け取りました。 すると、その若い女性店員さんが、私を見つめながらこう言ったのです。 「ちゃんと野菜も採って下さいね」 これが 「恋」 のはじまりでした・・・ というのは噓ですが、私はその言葉が本当にうれしかったのは間違いありません。

「真珠の耳飾りの少女」が来る話

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  フェルメールの 「真珠の耳飾りの少女」 が、今年の夏に来日することが決定しました。 大阪の中の島美術館で展示されるということです。 実に14年ぶりの来日になります。 私はまだこの絵を直接見たことはありません。 この作品はオランダを代表する画家 「ヨハネス・フェルメール(1632-1675)」 の最高傑作のひとつとされています。 2018年に東京上野で 「フェルメール展」 が開かれましたが、そのときはお目当ての 「真珠の耳飾りの少女」 は来ていませんでした。 リサーチというものを知らない私は、のこのこ上野まで行ってから、 「真珠の耳飾りの少女」 が来ていないことを知ったという苦い思い出があります。 今回14年ぶりの日本公開となりますと、この機会を逃すと、私はもう生きているうちにこの絵を見ることはないのかもしれません。 年齢を重ねると、さまざまなことを 「逆算」 して考えるようになります。 生きていられるのがあと何年。 元気に動けるのがあと何年。 それは儚く、想像以上に 「短い」 時間しか残されていないのです。 不動産、特に 「住まい」 の購入をお考えになる方に 「今はまだその時期じゃない」 「5年か6年経ってから」 と言われる方が、意外と多くいらっしゃいます。 もちろん、そのお考えを否定する気持ちはまったくありません。 高額な商品を購入する場合は、誰でも熟慮を重ね、さまざまなことを比較検討し、慎重に計画を進めていくことは当然のことです。 しかし、あまり時間をかけすぎることを、私はお勧めしません。 なぜなら、人生は 「有限」 だからです。 2026年は、他にも 「名画」 が来日します。 去年 「神戸」 で展示された、ゴッホの絵画 「夜のカフェテラス」 は、今、福島県にいます。 私はこの絵に描かれていいる夜の世界が好きで、以前ポスターを家に貼っていたほどです。 しかし本物を見たことは、まだありません。 それが5月に東京に来るので、その時は何とか行けないかなと思っています。 この年齢になると もっと早くからやっておけばよかった。 もっと早くから知っていればよかった。 そんな後悔ばかりが、私を襲います。 あれもしたかった。これもしたかった。 頭の中は、そんな思いがぐるぐると回るのです。 時間はだんだん加速するように、猛スピードで過ぎていきます。 後悔なんかしても、...

チョロい男の話

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 先日、衆議院選挙が終わり、予想通り自民党が圧勝しました。 野党の名だたる代議士たちが、永田町に戻ることはできませんでした。 私はそんな報道をぼんやりと見ていました。 私たち不動産業に関わらず、広く 「客商売でタブー」 の話題と言われているのが、 「政治の話」 と言われています。そして他には 「宗教の話」 「野球(プロ)の話」 とされています。 タクシーの運転手さんなどは、この手の話はまずしません。 私もお客様を接客する場合、この3つを話題にすることはありません。 「野球はどこのファン?」 そう尋ねられても 「特にない」 と答えています。 相手と違うチームのファンだと解ると、相手が不快になる可能性があるのです。 政治の話でも同じです。 私は特定の政党を応援するような振る舞いはしないようにしています。 私は令和元年に父を 令和2年に母を亡くしました。 まだコロナが流行る前でしたので、父の時も母の時も、親戚やご近所、職場の皆様にも大勢参列していただいて、通夜、葬儀を執り行いました。 その時に、必ず弔問に来てくれた 「議員」 さんがいました。 私はその方のを直接存じ上げてはいなかったのですが、父の時も、母の時も、通夜、葬儀には必ず臨席し、焼香をしていただき、私に直接お悔やみまでのべられました。 喪主でもあった私は、そのおかげでずいぶん世間に格好がついたのです。 そして私は今でもそのことを、 「深く恩義」 に思っています。 朝、私が車で出勤するとき、7時半ごろから交差点で、その 「議員」 さんがよく 「つじ立」 をしていらっしゃいます。 こちらは車で走っているので、 「議員」 さんの声はほとんど聞こえません。 それでも私は、車の窓をいっぱいに開け、その 「議員」 さんに向かって大きく手を振ります。 するとその 「議員」 さんも、私を見てにこやかに手を振って下さいます。 「議員」 さんは、私がいったい誰なのか覚えていないかもしれません。 それでも私は、いつも手を振り続けます。 そして選挙の時は、必ずその方に投票をしています。 「議員」 さんは、朝、車の中から手を振っているスキンヘッドの私を見て、何を思っていらっしゃるのでしょうか。 「チョロい男」 と、思っているのではないでしょうか。 それでもいいんです。 私はこの人が 「つじ立」 するかぎり手を振り続けますし、選挙に...

ハッテン場に迷い込んだ話

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 このお話は、まだ私が18歳か19歳の頃のことです。 当時の私は大阪のとある街のアパートに、一人で生活していました。 四畳半に三畳のキッチンが付いた古い 「木造アパート」 で、トイレは共同、お風呂はありませんでした。 お風呂は歩いて数分のところに 「銭湯」 があったので、毎日そこに通っていました。 田舎育ちで、 「銭湯」 に馴染みが無かった私でしたが、その広い浴槽、熱いお湯、高い天井など、開放的な 「銭湯」 は素晴らしく、その魅力にすっかりはまっていたのでした。 そのうちに、いつも同じ 「銭湯」 に行くのはつまらないなと思うようになり、私は自転車に乗って隣町に行ったり、休みの前日には思い切って遠くまで 「銭湯」 を探しに行ったりしました。 当時大阪の下町にはたくさん 「銭湯」 がありました。それぞれに特徴があって、中には歴史あるお城のような建物の 「銭湯」 もあったりして、私の 「銭湯」 めぐりは本当に楽しいことだったのです。 その日も 「銭湯」 を探しながら自転車を漕いでいた私は、ずいぶん暗くて寂しい街に入り込んでいました。 どこからかカラオケの音楽が聞こえてきたり、電車がカタゴト走る音が聞こえてきたり、いったいここがどこなのか、まったくわからないままでした。 そんな街の片隅に、ちいさく 「ゆ」 とかかれたネオンサインを見つけました。 「あったあった」 そのころはまだ携帯もスマホもありません。 行きたい場所を探すのは、自分の 「勘」 に頼っていたのですが、慣れてきた私にとって 「銭湯」 を見つけることは、そう難しくはありませんでした。 のれんをくぐり、番台でお金を払います。 番台ではオバチャンが座っていて (見慣れん奴が来たな) というような顔をしていました。 脱衣場には 「紋々」 を背負ったお兄さんもいましたが、もう私は慣れていたので、怖いとも嫌だとも思いませんでした。 服を脱いでロッカーに入れ浴室に進みますと、中は真っ白な湯気が覆っていて、隣にいる人の顔も見えないほどでした。 初めて来る 「銭湯」 ですから 「どんな設備があるのだろう」 なんて思いながら、とりあえず一番メインと思われる大きな湯舟に首まで浸かったのです。 気持ちのいい、よいお湯でした。 私は目を閉じて、ふーっと息を吐きました。 「あぁ、銭湯はいいなぁ」 私はそんなふうにリラックスしていま...

愛車とお別れした話

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 ちょっと古い話になるのですが。2005年に、私は車を買いました。 その車は 「スバルR1」 という軽自動車で、現在はもう製造されていません。 この車は軽自動車なのに4気筒のエンジンを積んでいて、660CCで64馬力を発生しました。 4WDで雪道でもガンガン走れました。 一応4人乗りではありましたが、後部座席はほとんど人が乗れる広さはありません。 私はこの車を気に入り、いろんなところにこの車で出かけました。   岐阜から仙台まで一晩で走りました。 丸1日かけて鹿児島までいったこともあります。 消耗品の交換はありましたが、この車は一度も故障をしませんでした。 そして私はこの車を、大切に2022年まで乗り続けたのです。 いつのまにか走行距離は22万キロになっていました。 運転席のシートが少し破れていましたが、エンジンは快調で、私はまだまだこの車に乗り続けるつもりでいました。 ある日、私はいつものように 「スバルR1] に乗ってでかけていました。 秋の朝、8時ごろだったと思います。 4車線の道路を走っていたとき、道は渋滞してのろのろ運転でした。 信号のない交差点にさしかかったときのことは、忘れることはできません。 突然右側の車線からこちらに向かって右折してくる黄色い車が目に入りました。 止まるかな止まるかなと思って見ていました。 しかしその車は全く止まることなく、ノーブレーキで私の 「スバルR1」 の右側ドアあたりに激しくぶつかったのです。 何が何だかわからないうちに、大きな音と共に私の 「スバルR1」 は路肩に押し出されるようにして止まりました。 ショックでした。 大切に大切に大切に乗ってきた私の 「スバルR1」 思い出のいっぱい詰まった 「スバルR1」 それが理不尽に壊されたのです。 私にケガはありませんでした。 しかし、事故のショックと共に強烈な怒りがマグマのように込み上げてきたのです。 路肩に止まった私は、加害者がすぐにやってきて、私に謝ってくるものだと思っていました。 その時に、全身から来る怒りを、その加害者にぶつけてやろうと思っていました。 しかし、いつまで待っても加害者はやってきませんでした。 5分経ちました。窓越しに見ると、加害者の車が10メートルほど離れた場所で、ハザードを点けて停まっているのが見えました。 「もう殺そう…」 私は車を降りました。...

インフルエンザに感染した話

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 2月3日の 「節分」 が過ぎました。 家や土地などの不動産の購入を考えている方で 「契約は節分を過ぎてから」 と、おっしゃる方がいらっしゃいました。 「なんでだろう?」 以前はそんなふうに思っていました。 よくよく調べると東洋占術の 「四柱推命」 や 「九星気学」 という占いの中では、 「節分」 を境に 「運気の元旦」 になるという考え方があるそうです。 冬から春への転換点でもある 「節分」 停滞していた運気が明けて、幸運が訪れると考える方もいらっしゃいます。 また、 「節分」 には 「鬼は外」 の言葉通り、旧年の 「邪気」 を払うので、清くなった状態で契約を結びたいという心理も働くようです。 私たちはよく 「節分」 には恵方巻をいただきますが、その年の吉方位は 「節分」 を境に切り替わります。 「今の時期に動くと凶方位だけど、節分を過ぎれば吉方位に変わる」 というケースもあり、そのために 「節分」 まで待つという考え方が生まれるのでしょう。 よく占いなどでは 「時期」 を重視しますが、不動産は 「一期一会」 の要素が強いことも事実です。 「節分を待っていると、理想の物件を逃してしまう」 といったリスクも負います。 物件との出会いも運気の一部です。 そんな場合は、 「節分」 を 「契約日」 ではなく、実際に住み始める 「入居日」 や 「決済日」 にすることをお勧めします。 運気を逃さず、お客様の最良のタイミングで不動産を購入できる最良の方法のひとつだと思います。 不動産の購入は、多くの人にとっては人生において、そう何度もあることではありません。 不安や疑念は、あって当たり前だと思います。 そんな時、お客様に寄り添い、その方の最良のタイミングを導き出すことも、私たち不動産業に関わる者の使命だと考えています。   さて、何を隠そうこの私は、 「四柱推命」 で調べると、この 「節分」 を境に運気が爆上がりするらしいのです。 今まで悩んでいたことが、嘘のように晴れるのは間違いないようです。 それを喜んだ矢先に、 「インフルエンザ」 に感染しました。 私の年齢で 「インフルエンザ」 に感染するということは、重症化も視野にいれなくてはなりません。 しかし、どうしたことか3日寝てたら治りました。 やはり運気は上がっているようです。 めでたしめでたし

古典落語を覚えた話

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 母が亡くなって7年目になるので 「七回忌の法要」 を営みました。 以前なら親戚やご近所にも声をかけたうえで、大人数で行うのですが、コロナ禍以降、すべてが質素になり、私の姉弟と、母の兄の子、私のいとこの2人に参加していただいて、5人だけで質素に執り行いました。 「法要」 は自宅で行いました。 遠方から来た姉が、私が念入りに掃除したあとから、重ねて掃除を始めました。 「よくこんなきたないところで法事ができるね」 姉の嫌味とも𠮟責ともとれる言葉を聞きながら、私は黙ったまま姉の手伝いをしました。 「冠婚葬祭」 という言葉があります。 「冠」 は成人式 「婚」 は結婚式 「葬」 はお葬式 「祭」 はお祭り 昭和の初め頃までは、結婚式やお葬式の行事は自宅で執り行うことがほとんどでした。 ふすまや建具を取り払い、自宅に大広間を設えます。 そこにお膳を並べ、何十人もの人を招くのです。 男たちは酒を飲み、大声で話し、女性は料理を運んだり、お酌をしたりしていました。 平成になるころには、もうそうした行事を自宅で行うことは、ほどんどなくなりました。 平成以前は、日当たりの良い南側に、和室2間を続間で造る家はとても多かったと記憶しています。 それは自宅に大勢の人を招いてさまざまな行事に対応するためでした。 床の間には掛け軸をかざり、床柱には 「銘木」 を設えました。 玄関は広く、土間も広く取りました。 それが家に対する考え方としてあったのです。 しかし、もうその価値観は廃れました。 定刻になって和尚さんが来て、少しの法話の後、お経がはじまりました。 最初は 「正座」 で耐えていた私も、20分もすると限界がきて、痺れた足を崩しました。 「法要」 が終わり、姉弟やいとこたちと昔話をしました。 母が嫁入りした時の写真を、みんなで一緒に見ました。 母の結婚式は自宅で行われました。 花嫁衣裳を着た母が映る白黒写真には、22歳の母がいました。 今のように、ホテルや結婚式場で行われる結婚式や披露宴ではなく、家で質素でささやかな結婚式を挙げた母は、このときどんな思いでいたのでしょう。 母は亡くなる前の2年間、下半身が麻痺してしまい、歩くことはおろかベッドから起き上がることもできなくなりました。 認知症ではなかったので、母はときどき 「外を歩きたい」 と言って、感情をぶつけるように泣きました。 ...