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ハッテン場に迷い込んだ話

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 このお話は、まだ私が18歳か19歳の頃のことです。 当時の私は大阪のとある街のアパートに、一人で生活していました。 四畳半に三畳のキッチンが付いた古い 「木造アパート」 で、トイレは共同、お風呂はありませんでした。 お風呂は歩いて数分のところに 「銭湯」 があったので、毎日そこに通っていました。 田舎育ちで、 「銭湯」 に馴染みが無かった私でしたが、その広い浴槽、熱いお湯、高い天井など、開放的な 「銭湯」 は素晴らしく、その魅力にすっかりはまっていたのでした。 そのうちに、いつも同じ 「銭湯」 に行くのはつまらないなと思うようになり、私は自転車に乗って隣町に行ったり、休みの前日には思い切って遠くまで 「銭湯」 を探しに行ったりしました。 当時大阪の下町にはたくさん 「銭湯」 がありました。それぞれに特徴があって、中には歴史あるお城のような建物の 「銭湯」 もあったりして、私の 「銭湯」 めぐりは本当に楽しいことだったのです。 その日も 「銭湯」 を探しながら自転車を漕いでいた私は、ずいぶん暗くて寂しい街に入り込んでいました。 どこからかカラオケの音楽が聞こえてきたり、電車がカタゴト走る音が聞こえてきたり、いったいここがどこなのか、まったくわからないままでした。 そんな街の片隅に、ちいさく 「ゆ」 とかかれたネオンサインを見つけました。 「あったあった」 そのころはまだ携帯もスマホもありません。 行きたい場所を探すのは、自分の 「勘」 に頼っていたのですが、慣れてきた私にとって 「銭湯」 を見つけることは、そう難しくはありませんでした。 のれんをくぐり、番台でお金を払います。 番台ではオバチャンが座っていて (見慣れん奴が来たな) というような顔をしていました。 脱衣場には 「紋々」 を背負ったお兄さんもいましたが、もう私は慣れていたので、怖いとも嫌だとも思いませんでした。 服を脱いでロッカーに入れ浴室に進みますと、中は真っ白な湯気が覆っていて、隣にいる人の顔も見えないほどでした。 初めて来る 「銭湯」 ですから 「どんな設備があるのだろう」 なんて思いながら、とりあえず一番メインと思われる大きな湯舟に首まで浸かったのです。 気持ちのいい、よいお湯でした。 私は目を閉じて、ふーっと息を吐きました。 「あぁ、銭湯はいいなぁ」 私はそんなふうにリラックスしていま...

愛車とお別れした話

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 ちょっと古い話になるのですが。2005年に、私は車を買いました。 その車は 「スバルR1」 という軽自動車で、現在はもう製造されていません。 この車は軽自動車なのに4気筒のエンジンを積んでいて、660CCで64馬力を発生しました。 4WDで雪道でもガンガン走れました。 一応4人乗りではありましたが、後部座席はほとんど人が乗れる広さはありません。 私はこの車を気に入り、いろんなところにこの車で出かけました。   岐阜から仙台まで一晩で走りました。 丸1日かけて鹿児島までいったこともあります。 消耗品の交換はありましたが、この車は一度も故障をしませんでした。 そして私はこの車を、大切に2022年まで乗り続けたのです。 いつのまにか走行距離は22万キロになっていました。 運転席のシートが少し破れていましたが、エンジンは快調で、私はまだまだこの車に乗り続けるつもりでいました。 ある日、私はいつものように 「スバルR1] に乗ってでかけていました。 秋の朝、8時ごろだったと思います。 4車線の道路を走っていたとき、道は渋滞してのろのろ運転でした。 信号のない交差点にさしかかったときのことは、忘れることはできません。 突然右側の車線からこちらに向かって右折してくる黄色い車が目に入りました。 止まるかな止まるかなと思って見ていました。 しかしその車は全く止まることなく、ノーブレーキで私の 「スバルR1」 の右側ドアあたりに激しくぶつかったのです。 何が何だかわからないうちに、大きな音と共に私の 「スバルR1」 は路肩に押し出されるようにして止まりました。 ショックでした。 大切に大切に大切に乗ってきた私の 「スバルR1」 思い出のいっぱい詰まった 「スバルR1」 それが理不尽に壊されたのです。 私にケガはありませんでした。 しかし、事故のショックと共に強烈な怒りがマグマのように込み上げてきたのです。 路肩に止まった私は、加害者がすぐにやってきて、私に謝ってくるものだと思っていました。 その時に、全身から来る怒りを、その加害者にぶつけてやろうと思っていました。 しかし、いつまで待っても加害者はやってきませんでした。 5分経ちました。窓越しに見ると、加害者の車が10メートルほど離れた場所で、ハザードを点けて停まっているのが見えました。 「もう殺そう…」 私は車を降りました。...

インフルエンザに感染した話

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 2月3日の 「節分」 が過ぎました。 家や土地などの不動産の購入を考えている方で 「契約は節分を過ぎてから」 と、おっしゃる方がいらっしゃいました。 「なんでだろう?」 以前はそんなふうに思っていました。 よくよく調べると東洋占術の 「四柱推命」 や 「九星気学」 という占いの中では、 「節分」 を境に 「運気の元旦」 になるという考え方があるそうです。 冬から春への転換点でもある 「節分」 停滞していた運気が明けて、幸運が訪れると考える方もいらっしゃいます。 また、 「節分」 には 「鬼は外」 の言葉通り、旧年の 「邪気」 を払うので、清くなった状態で契約を結びたいという心理も働くようです。 私たちはよく 「節分」 には恵方巻をいただきますが、その年の吉方位は 「節分」 を境に切り替わります。 「今の時期に動くと凶方位だけど、節分を過ぎれば吉方位に変わる」 というケースもあり、そのために 「節分」 まで待つという考え方が生まれるのでしょう。 よく占いなどでは 「時期」 を重視しますが、不動産は 「一期一会」 の要素が強いことも事実です。 「節分を待っていると、理想の物件を逃してしまう」 といったリスクも負います。 物件との出会いも運気の一部です。 そんな場合は、 「節分」 を 「契約日」 ではなく、実際に住み始める 「入居日」 や 「決済日」 にすることをお勧めします。 運気を逃さず、お客様の最良のタイミングで不動産を購入できる最良の方法のひとつだと思います。 不動産の購入は、多くの人にとっては人生において、そう何度もあることではありません。 不安や疑念は、あって当たり前だと思います。 そんな時、お客様に寄り添い、その方の最良のタイミングを導き出すことも、私たち不動産業に関わる者の使命だと考えています。   さて、何を隠そうこの私は、 「四柱推命」 で調べると、この 「節分」 を境に運気が爆上がりするらしいのです。 今まで悩んでいたことが、嘘のように晴れるのは間違いないようです。 それを喜んだ矢先に、 「インフルエンザ」 に感染しました。 私の年齢で 「インフルエンザ」 に感染するということは、重症化も視野にいれなくてはなりません。 しかし、どうしたことか3日寝てたら治りました。 やはり運気は上がっているようです。 めでたしめでたし

古典落語を覚えた話

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 母が亡くなって7年目になるので 「七回忌の法要」 を営みました。 以前なら親戚やご近所にも声をかけたうえで、大人数で行うのですが、コロナ禍以降、すべてが質素になり、私の姉弟と、母の兄の子、私のいとこの2人に参加していただいて、5人だけで質素に執り行いました。 「法要」 は自宅で行いました。 遠方から来た姉が、私が念入りに掃除したあとから、重ねて掃除を始めました。 「よくこんなきたないところで法事ができるね」 姉の嫌味とも𠮟責ともとれる言葉を聞きながら、私は黙ったまま姉の手伝いをしました。 「冠婚葬祭」 という言葉があります。 「冠」 は成人式 「婚」 は結婚式 「葬」 はお葬式 「祭」 はお祭り 昭和の初め頃までは、結婚式やお葬式の行事は自宅で執り行うことがほとんどでした。 ふすまや建具を取り払い、自宅に大広間を設えます。 そこにお膳を並べ、何十人もの人を招くのです。 男たちは酒を飲み、大声で話し、女性は料理を運んだり、お酌をしたりしていました。 平成になるころには、もうそうした行事を自宅で行うことは、ほどんどなくなりました。 平成以前は、日当たりの良い南側に、和室2間を続間で造る家はとても多かったと記憶しています。 それは自宅に大勢の人を招いてさまざまな行事に対応するためでした。 床の間には掛け軸をかざり、床柱には 「銘木」 を設えました。 玄関は広く、土間も広く取りました。 それが家に対する考え方としてあったのです。 しかし、もうその価値観は廃れました。 定刻になって和尚さんが来て、少しの法話の後、お経がはじまりました。 最初は 「正座」 で耐えていた私も、20分もすると限界がきて、痺れた足を崩しました。 「法要」 が終わり、姉弟やいとこたちと昔話をしました。 母が嫁入りした時の写真を、みんなで一緒に見ました。 母の結婚式は自宅で行われました。 花嫁衣裳を着た母が映る白黒写真には、22歳の母がいました。 今のように、ホテルや結婚式場で行われる結婚式や披露宴ではなく、家で質素でささやかな結婚式を挙げた母は、このときどんな思いでいたのでしょう。 母は亡くなる前の2年間、下半身が麻痺してしまい、歩くことはおろかベッドから起き上がることもできなくなりました。 認知症ではなかったので、母はときどき 「外を歩きたい」 と言って、感情をぶつけるように泣きました。 ...

緑の中の事務所の話

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 株式会社伊田屋 岐阜支店は2025年に事務所をリニューアル致しました。 映像はそのリニューアルが竣工したばかりの時の記録映像を私が編集したものです。 この事務所の中に、株式会社伊田屋の 「設計部」「不動産部」「工務部」「営業部」「リフォーム部」 そして 「経理」 が入っています。 私は名古屋支店と岐阜支店の両方に机がある、数少ない社員です。 会社の期待と信頼の高さがうかがえます。 この事務所の設計は、株式会社伊田屋の 「設計部」 がいたしました。 日頃 「設計部」 はお客様のお住まいになる住宅の設計を行っています。 専門知識や技術だけでなくトレンドを感じる感性とセンスを持った 「頭脳集団」 です。 私はもう歳を取りすぎましたので、なかなかむつかしいのですが、よく 「設計士」 になりたいなと思うことがあります。 「設計士」 はお施主様が喜んでいただけるように、ご要望に添いながらあらゆる面を考慮して図面を描くのですが、もし、私が 「設計士」 なら、世界中探してもどこにもない 「画期的」 なデザインで暮らしやすい家を設計して、有名になってしまうでしょう。 私のデザインには特徴があって、見ると誰にでも見分けがつくようになっているのです。 そして私の設計する住宅は口コミでどんどん広がっていくのです。 自分の 「想い」 を 「形」 にできる。 私が 「設計士」 にあこがれるのは、これができるからです。 しかし、 「設計士」 になるには、相当な勉強をして 「資格」 を取らなくてはいけません。 家のみならず 「建物」 は人の命をのせています。 「設計士」 には技量だけではなく重い責任があるのです。 株式会社伊田屋の 「設計部」 は、そんな私の 「夢」 を実現してくれる集団なのです。

暖かい家にあこがれる話

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 夏が好きか冬が好きかと問われれば、私は断然 「夏」 が好きです。 夏の暑さや照り付ける太陽は、私はむしろ 「心地いい」 とさえ感じます。 しかし冬はいけません。あたりまえに冬は寒いからです。 「地球温暖化」 と言われて久しいですが、冬の寒さは相変わらずのような気がします。 有名な 「徒然草」 を書いた 「吉田兼好」 は、こう書いています。 「家つくりは、夏をもって旨とすべし ふゆはいかなるところにもすまる」 この鎌倉時代の歌人は、そのさまざまな思考のなかで、 「家を造るときは夏に快適になるように造ろう。冬はなんとかなる」 おおむねこのような意味を書き残しています。 エアコンなどの無い時代、冬は囲炉裏や火鉢で暖をとれても、夏の暑さは防ぎようがなかったから、このような考え方になったのだと思います。 私はこの 「吉田兼好」 の考えに納得がいきません。 私は夏の暑いのはいいんです。冬をあったかくしてくれと思うのです。 現代の家は、各社断熱材に注力しています。 断熱材の無い家など、現代ではほとんど存在しません。 断熱材の役割は 「ダウンジャケット」 と同じです。 冬になれば薄手のシャツから厚手の 「ダウンジャケット」 に着替えます。 身体はポカポカあったかくなります。 しかし、どんな高級な 「ダウンジャケット」 を着ていても、前のファスナーが開いていたら意味がありません。当然寒いです。 これが 「気密(きみつ)」 の重要性です。 だから 「冬に暖かい家」 を求める現代の家には 「断熱材」 と 「気密」 がとても重要視されているのです。 また私の話になるのですが、私の家は古いので 「断熱材」 は入っていません。 おかげで冬は絶望的に寒いのです。 特に困るのがお風呂に入るとき。 よく 「寒中水泳」 で、真冬の海に入る人がいますが、私も毎日 「寒中水泳」 のようなスリルを味わっているのです。 冬にお風呂で亡くなる人は、交通事故で亡くなる人より多いのだそうです。 このような 「寒中水泳」 を続けていると、いずれ私はお風呂で死んでしまうでしょう。 もし、私のように古くて寒い家で困っている方がいらっしゃれば、 「株式会社伊田屋」 か 「伊田屋エステート」 にご相談ください。 あなたの人生がきっと暖かなものになるのは間違いありません。

雪の女王の話

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 数年に1回と言われる 「寒波」 がやってきています。 この数年に1回というのは、毎年聞いているような気がします。 だからなのか、あわてて対策をすることはありません。 「寒波」 がくると雪が降ります。 私の住む岐阜県山県市は、毎年数回は雪が積もります。 最近の積雪はそれほどでもありませんが、以前はよく降る年もありました。 私が経験した今までで一番の積雪は、私の腰が完全に埋まるほどでしたから、80cmから100cmはあったでしょう。 そんな雪にまつわる 「事件」 を思い出しています。 これはもう10年以上前にあった出来事です。 その日も数年に1度の寒波がやってきていました。 夕方から雪が舞い始め、暗くなるころには吹雪になりました。 私は定時を過ぎたころ、会社を出ました。 私は会社から北へ北へと帰路につくので、進めば進むごとに、雪は激しくなります。 ワイパーはひっきりなしに動いています。 「今夜は熱い風呂に入って早めに寝てしまおう」 そんなことを考えてハンドルを握っていました。 ようやく家にたどり着いたのは、9時近かったと思います。 家について、上着を脱いだその時、私の携帯電話が鳴りました。 電話は知り合いの女性からでした。 そんなに親しい人ではなかったので、何でこんな時間に電話があるのだろうと不思議に思って電話に出ました。 「はい、もしもし」 「あっ、ちょっと車が雪に突っ込んじゃったので助けてくれる?」 「えっ、どこで?」 「○〇の交差点のところ」 つまり雪で車が動かなくなったので助けてほしいとの要請でした。 そんなに親しくない人がなぜ私に助けを求めるのか、ちょっと違和感がありました。 しかしロードサービスも繋がらなく、他に頼める人がいないというので、私はその人を助けるために、再び家を出て、吹雪の中を走り始めました。 その人が立ち往生している場所まで、優に1時間はかかりました。 もうほとんど車は走っていません。 雪と信号だけがぴかぴか光っていました。 その人が 「立ち往生した」 といった交差点に着きました。 相変わらず激しい吹雪です。 しかし、立ち往生した車は見当たりません。 私はその人に電話をしました。 「着いたよ。どこですか?」 すると電話に出た彼女はこう言いました。 「もう~ 遅いから他の人に助けてもらった」 なんやそれ 他に頼める人が居ないって言ってた...