古典落語を覚えた話
母が亡くなって7年目になるので「七回忌の法要」を営みました。
以前なら親戚やご近所にも声をかけたうえで、大人数で行うのですが、コロナ禍以降、すべてが質素になり、私の姉弟と、母の兄の子、私のいとこの2人に参加していただいて、5人だけで質素に執り行いました。
「法要」は自宅で行いました。
遠方から来た姉が、私が念入りに掃除したあとから、重ねて掃除を始めました。
「よくこんなきたないところで法事ができるね」
姉の嫌味とも𠮟責ともとれる言葉を聞きながら、私は黙ったまま姉の手伝いをしました。
「冠婚葬祭」という言葉があります。
「冠」は成人式
「婚」は結婚式
「葬」はお葬式
「祭」はお祭り
昭和の初め頃までは、結婚式やお葬式の行事は自宅で執り行うことがほとんどでした。
ふすまや建具を取り払い、自宅に大広間を設えます。
そこにお膳を並べ、何十人もの人を招くのです。
男たちは酒を飲み、大声で話し、女性は料理を運んだり、お酌をしたりしていました。
平成になるころには、もうそうした行事を自宅で行うことは、ほどんどなくなりました。
平成以前は、日当たりの良い南側に、和室2間を続間で造る家はとても多かったと記憶しています。
それは自宅に大勢の人を招いてさまざまな行事に対応するためでした。
床の間には掛け軸をかざり、床柱には「銘木」を設えました。
玄関は広く、土間も広く取りました。
それが家に対する考え方としてあったのです。
しかし、もうその価値観は廃れました。
定刻になって和尚さんが来て、少しの法話の後、お経がはじまりました。
最初は「正座」で耐えていた私も、20分もすると限界がきて、痺れた足を崩しました。
「法要」が終わり、姉弟やいとこたちと昔話をしました。
母が嫁入りした時の写真を、みんなで一緒に見ました。
母の結婚式は自宅で行われました。
花嫁衣裳を着た母が映る白黒写真には、22歳の母がいました。
今のように、ホテルや結婚式場で行われる結婚式や披露宴ではなく、家で質素でささやかな結婚式を挙げた母は、このときどんな思いでいたのでしょう。
母は亡くなる前の2年間、下半身が麻痺してしまい、歩くことはおろかベッドから起き上がることもできなくなりました。
認知症ではなかったので、母はときどき「外を歩きたい」と言って、感情をぶつけるように泣きました。
そんな母をなぐさめるために、私は「古典落語」を覚えました。
毎晩病院のベッドの脇で、母に「落語」を聞かせました。
「落語」を聞きながら眠りにつく母の寝顔を見るのが好きでした。
母の人生は幸せだったのか?
私には答えがありません。
コメント
素敵なエピソード、有り難うございました。
母上様は幸せな人生だったはずです。
親孝行をされたと思います。